以前に書いたままで、アップしなかったものを載せてみようと思います。
あまり文章力がないので、よくわからないところがあったら、ごめんなさい。


網膜芽細胞腫(retinoblastoma)について。

今更なにをどう言い出すのか・・・書くことに何の意味があるのか・・・考えました。毎日毎日考えました。自分の中での結論ももう出ているし、なにも考える事なんてあるはずがない・・・のに、結局考えはまとまりませんでした。まとまらないながらも、成果はありました。とりあえず書くことに決めました。最終的な結論がでないまま、書き綴っています。そう考えると、もしかしたら今書いているこのページは、一生アップされることがないかもしれません。今までの人生の中で、幾度となく向き合う機会にさらされ、その度にその時限りの結論しかだせないまま、今日まで生きてきてしまいました。
今僕の中で、この文章を書くに当たって、一つだけはっきりとした意志があります。・・・お涙頂戴にはしたくない。今までに、それはもちろんつらいことはたくさんありましたが、でも、僕は毎日元気に楽しく幸せに生活しています。つまり、なんの不満もあるわけではない。でも、いろいろ考えてみて思いました。・・・実はなにも解決していない。
今まで向き合ってきたもの、いや、本当は避けて通ってきたものは、まだほんの外側の殻にすぎない。もっと本質的な部分と向き合わなければ・・・。
僕は、本質的なものと向き合わなければならない職業を選んでしまいました。

網膜芽細胞腫・・・小児ガンの一種。日本では年間80人が発症すると言われています。僕の病気が発見されたのは、0歳6ヶ月の時でした。現在では医療技術も発達し、かなり高い確率で命を助けることができるようですが、僕が右眼の摘出手術を受けるとき、生存できる可能性は30%と言われたそうです。が、僕は生き残りました。
僕には病気と真正面からぶつかり合った記憶がありません。ですから、ボランティアに誘っていただいた時も、今現在病気と闘っている物心ついた子供達に対して、自分の経験がなんの役に立つのか、と思ってしまったのです。今となっては、ほんの僅かでも力になれればと思い続けていますが。
物心が付いた頃には、僕の右眼はすでに僕のものではありませんでしたが、その時にはその物は本当の自分のものだと信じていたと思います。今でこそ、義眼と呼ばれるプラスティックでできた眼の模型が入っているのだということを認識できますが、みんな当たり前のように眼がはずせて、当たり前のように洗う。当時の僕にとっては、それこそが普通の人間の姿でした。
僕には病気と真正面からぶつかり合った記憶がありません。そのことが本当の意味で幸せであるか、不幸であるか、今の僕に判断することはできません。でも、僕の右眼にははっきりと病気と闘った傷が刻まれています。僕の事を親身に観てくださった先生(もう25年のつき合いですから、先生と呼ぶことに対していささか気恥ずかしい思いもします。)が、摘出してしまったことは医者として病気に対する敗北だ、とおっしゃっていたことが、とても印象的でした。「そんなことありません。先生の勝敗は、僕の人生を見てから語ってください」と本当は言いたかったのですが、未だに言えないままでいます。僕が一人の人間として、有意義な時間を、人生を過ごせたら、どんな方法であれその人生を守れた先生は勝者ではないか、と思うのです(アー恥ずかしい)。僕が今生きている、それだけでもそれがどんなに素晴らしいことであるか、少しは理解しているつもりです。

今までに義眼のためにイヤな思いをたくさんしてきました。もちろんいじめられることもありました。そして僕は、どんどん殻にとじこもって行きました。イヤな事がある度に、自分の中で自分が壊れてしまわないように、「僕はガンから生還した、選ばれたエリートなんだ」と思いこんでみたり、また家の中の物を壊すことによって、発散していました。イヤな事、それは本当に突発的に起こるのです。友達からのいじめはもちろん、ただ鏡に映った自分の顔を見る、それだけのことで不安定になることもありました。そんな生活を続けていく中で自分の事がとても嫌いになってしまい、その嫌いだということも、義眼が嫌いなのか、自分自身が嫌いなのか、よくわからなくなってしまった時期もあります。
でも幸い、僕には音楽がありました。先生方も、積極的に僕の音楽に対しての能力を評価してくれて、例えば全校集会での歌の伴奏など、自分にとってどれだけ自信につながったかしれません。そして、生徒の前で病気について話すことによって、僕の殻をみごとに取り去ってしまった先生。いろいろな人の協力を得て、やっとここまでたどり着くことができました。
もちろん、イヤな思いばかりではありません。僕が義眼で本当に良かったと思うことは、人がすぐに僕の顔を覚えてくれることです。僕は人の名前を覚えることが、あまり得意ではないのですが、名前を覚えられることはとても得意です。時々覚えていない人からも声を掛けられるものですから(ごめんなさい!!でも、僕はとても人好きなので、見放さないでください。)、前の人が頭を下げると自然に下げる癖がついてしまって、とても恥ずかしい思いをしたりします。僕は本当にとても人好きです。だから、人に覚えられやすい自分がとても好きです。
そして実は、僕はめちゃめちゃカッコつけ野郎です。僕の思うところのカッコイイという言葉の意味は、人間らしい、ということだと思います。飾らないで素直に、ありのままの自分をさらけ出せる人が、一番カッコイイと思っています。そういう意味で義眼は、僕に対して自分をさらけ出すきっかけを与えてくれた素晴らしいアイテムでした。でした・・・というのは、もうこれからは義眼をきっかけに使うのはやめようと、ずっと前に決めたからです。ここに、今回書くことに対して悩んだ理由があります。

僕は、本質的なものと向き合わなければならない職業を選んでしまいました。
そうなのです。僕は声楽家、その中でもオペラを主として歌うオペラ歌手になりたいのです。やっと、この世界に少し足をつっこめたかな・・・という所まできました。声楽は浪人してから、予備校でのストレス発散にと思い始めたのですが、どういうわけかストレス発散がメインになってしまいました。でも歌の道を進むに当たって、自分の中ではすごく葛藤がありました。
僕の場合、摘出時に眼の中を大きくえぐってしまっているため(再発防止のため)、義眼が少しも動きません。つまり、目線で演技をすることが、とても難しいのです。そして、やっぱり人の目を見ることが苦手です。相手には自分の目がどう見えているのだろうと、気になって仕方ありません。目というのは自分での意識と関係なくクルクルとまわるもので、義眼と同じ目線に合わせてコントロールすることは不可能だと言えます。そして、そんな僕におかまいなしに、二期会のオペラスタジオという研修施設では、演出家の先生の目線に対する指導があります。クラス授業で、周りの友達が一生懸命に指導を受けている姿をみて、本当に悲しくなるときがあります。でも、僕がいても、僕に対しても、目線の指導をしてくれる演出家の先生にはとても感謝しています。感謝していても、正直に言って悲しくはなってしまうのですが。でも、本当にありがたいと思っています。結局僕が一生ぶつかっていかなければならない壁ですから。今だけ逃げても仕方ないので。

オペラ歌手なんて、本当に食べていけない職業、いや、職業として成り立っていない職業だと思います。そんな中に、演技で不利な僕が入って、自分で言うのもナンですが、実はすごく大変なことなのかもしれません。これから歌い続けていくに当たって、もしかしたら義眼のために仕事が他の人の所に・・・ということも、本当にもしかしたら、あるかもしれません。でも、いいんです。いや、いいと思いたいです。本当にいいと思えるまで、まだ時間がかかるかもしれませんが、でも、いいんです。もしかしたら一生思えないかもしれませんが、でも、本当にいいんです。今はそれでいいと思っています。どんなに義眼のために悲しくなっても、悩まされても不利になっても。
僕が歌でいこう、と踏ん切りをつけられたのも義眼のおかげですし、これからも義眼に助けられる事がたくさんあるでしょう。歌でいこうと思ったときに、僕に最後の踏ん切りをつけた気持ちは、不謹慎かもしれませんが、儲け物の命だと思って自分のやりたいことをやろう、という気持ちでした。そして、義眼がチャンスにつながることだってあるのです。こう書いてしまうと、お涙頂戴か?という誤解を招きかねませんが、決してそういうことではありません。その人の能力が能力以上に評価されるということではありません。もしかしたら人並みになるために人並み以上の努力が必要かもしれないけれども、その努力は必ず実るということです。障害を持っているということは、それだけ人目に付きやすいのです。前述しましたが、僕も人に顔を覚えてもらえて、その事がチャンスにつながることだってきっとあると思います。そして、チャンスにつながらなくても、たくさんの人との豊かな人間関係は、それだけで人生を有意義なものにしてくれるはずです。

ほんの僕の戯言ですので、あまり深くお考えにならないでくださいね。
こんな事を書くのに1時間以上もかけて、また少し、自己嫌悪です。


2001年4月17日
2001年11月4日 追補